2011年11月20日日曜日

「火消し風俗伊達姿 浮世絵版画(芳賀書店版)」に江戸の粋を見る

「火消し風俗伊達姿 浮世絵版画(芳賀書店版)」に江戸の粋を見る


「火事と喧嘩は江戸の華」、世界有数の大都市「大江戸」は、成熟した文化と裏腹に火災が頻発した都市でもある。そこで活躍したのが、大名火消し(加賀藩・加賀鳶の喧嘩騒動は有名)や町火消し「いろは四十八組・深川十六組」であった。火災騒動で印象深いのは、歌舞伎の「伊達娘恋緋鹿子」、八百屋お七が狂乱状態で櫓の半鐘をうち鳴らす場面、炎に包まれた鐘を打つ娘の振袖と散る桜、その艶やかさがいつまでも目に残っている。江戸文化とは不思議な文化でもある、喜怒哀楽の襞にこういった「美意識」が密やかに育っている、粋でいなせな文化もそこで育まれたものに相違ない。この本に収められている多くは「浮世絵版画」、そういった江戸のエスプリ(精神文化)にわたしたちは魅了されるのである。

2011年9月9日金曜日

「paraparaart.com」のPRアニメーションが新しくなりました

paraparaart.comのPRアニメーションが新しくなりました


わたしたちのホームページ「paraparaart.comのPRアニメーションが新しくなりました。3DCGアニメーションの魅力のひとつが、そのリアルさにあります。しかしながら、リアルさだけを追い求めるだけでは、アニメ特有の「創造の広がり」が得られません。クリエーターは、それが極めて短い「PRアニメーション」であれ、執拗なまでに(仔猫の)動作を観察し、その何気ないしぐさのなかに(仔猫の)気持ちの細やかな変化をも表現する。子猫であれ、少女であれ、老人であれ、それは単なる「キャラクター」ではない、見る人に伝えたい「想い」が創造を豊かにするのかもしれない。

2011年6月20日月曜日

エドゥアルド・ナランホの絵画「夢を育てる空間」



「東北東海岸地域の惨状」「原発事故の恐怖」以降、時折わたしの脳裏を走る絵がある。詩人でもあるエドゥアルド・ナランホの絵画「夢を育てる空間」が、それである。生と死の問題に取り付かれた詩人エドゥアルド・ナランホの絵画は、徹底したリアリズムの手法で描かれる。しかも、現実の狭間に放置されたかのように、それらの多くは空虚そのものである。このスペイン画家「エドゥアルド・ナランホ」は、わたしと同時代(年齢は3~4歳わたしより上ですが)に生きている。この人にも「スペイン画家ダリ」の影響が多少見られるものの、その時代背景が影を落としていることは明瞭に伝わってくる。1960~1980年(わたしたち少年期~青春期)は、視覚的にはかなり刺激の多い時代と言える、言葉を変えれば「シュールな時代」だったのかもしれない。まさに日本が置かれている今の状況は、再び訪れた「シュールな時代」なのかもしれない。むろん、「夢を育てる空間」が意味するところは「謎」ですが、「空虚」を背負う覚悟だけはしないといけない。

2011年3月11日金曜日

HORST JANSSEN (ホルスト・ヤンセン)が残した「絵手紙」

 
ホルスト・ヤンセンもかなりな読書家で、文学はもとより哲学・音楽・歴史と多岐にわたる。絵を描くことは常に考えていることと同義語ですから、その知的好奇心は容易に理解できることです。どこにいても、何かを書いている姿を見かけることが多いと聞きます。これは「ホルスト・ヤンセンが残した絵手紙」です。このようなメモのような手紙が、「気を許していた編集者」に多数送られています。思いついたことを、書き留めていたものと思われますが、すべてが作品のように体裁が整えられていることに驚かされます。

2011年3月5日土曜日

ホルスト・ヤンセンのドローイングと版画



日本の画狂人というと葛飾北斎ですが、ヨーロッパで画狂人というと、ドイツ生まれのホルスト・ヤンセンを指します。北斎の影響を色濃く受けているからだけでない、その自由で闊達な線描ゆえにそう評される。私は、彼の描写力と冷徹な眼が好きだ。この画家をこのブログで紹介するのは、4度目になります。ヤンセンの作品の多くは、ドローイングと版画(木版画・銅版画)です。紙に描かれたものと、紙に刷られたものが大半だということなのです。その作品数は膨大で、誰も把握していないぐらいです。制作の現場で、恋人や友人たちに作品を渡してしまうことが多く、把握できないのはその為でもあり、気まぐれで神経質な性格が生活を煩雑にしていたこともあります。晩年、画商が作品を管理することになりますが、ホルスト・ヤンセンその人を管理できようはずもなく、いずこかへ隠遁してしまうことも度々あったと言われます。この人の線は、その表現の掟(きまりごと)を逸脱するほどの生命憾があり、そのエッジは鋭い刃物で切ったような潔さがあります。繰り返される描線の激しさは、静と動の狭間を飛ぶ鳥のようでもあり、獲物は跡形も無くなる。なによりも、見ていて飽きない絵が多いことが魅力です。和紙に描かれることも多く、無造作に切られたりつぎたされたりと、その素材に残る痕跡に驚かされます。わたしも若い頃に、銅版画の制作をしていたことがあり、素材の質感が表現を解放してくれることもあります。テキストとしての江戸浮世絵(北斎・歌麿)や和紙の質感が、ホルスト・ヤンセンの表現領域をかなり自由にしたと思われます

2011年3月4日金曜日

レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿から


『聖ヒエロニムス』が描かれた頃、レオナルド・ダ・ヴィンチは叔父の遺産相続や葡萄園の水利権のことで役所や裁判所に頻繁に行き来している。しかしながら、公証人や知人を間に入れてみるも、なかなか「解決」できずにいる。数か月を要するもまったく進まない交渉時に、「愚かな手続きのために無駄と思える時間を費やしている」と嘆いています。「老人」のスケッチが多く見られるのがこの頃なのです、観察していたのかもしれません。おそらく、レオナルド自身の老いも感じていたのかもしれません。レオナルドは、膨大なノートやメモを整理(後の手稿)し、フランスに行く(都落ち)ことになります。
『聖ヒエロニムス』のところで、わたしは上記のように書き加えました。パリ手稿には、水に関するメモが多く見られます。ミラノの運河計画や分水路(水利)などが知られていますが、アンボワーズ城地域(フランス)のロワーヌ川でも大規模な運河を計画しています。葡萄園の水利権トラブルに見られるように、川(水)の管理は生活に欠かせないものでした。レオナルド・ダ・ヴィンチにとって、水は自然観察の原点に他ならない。おそらく、創造の源泉と言っていいぐらいの「魅力ある対象」だったと思います。晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチは、ロワーヌ川岸をよく散策しています。
自然を観察することからレオナルド・ダ・ヴィンチは、多くのことを学び、新しい発見や創造をしています。野山を流れる川から、生物に優しい「治水のあり方・利水のシステムまで」を考えています。地層から数多く出てくる貝類から、『ノアの箱舟(創世記)』でなく『地殻変動(科学)』を意識するほどの思考過程をこれらの手稿に見ることができます。わたしたちがレオナルド・ダ・ヴィンチから学ぶことは、多いのです。晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチは、何を想い、何を後世に残したのか、わたしたちは謙虚に見直す必要があります。

レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖ヒエロニムス』


『聖ヒエロニムス』、この板に描かれた絵は、長く行方不明でした。顔の部分は、切り取られ、なんと靴屋の椅子に貼り付けられていたのです。今日、この状態で見られることは、奇跡と言っていいのです。しかも、この絵がレオナルド・ダ・ヴィンチの手になるという「裏付けになる資料(確証)」は何もないのです。そのすぐれた素描力と同時期のスケッチなどから推測しているにすぎないのですが、レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作として疑う人は誰もいません。わたしは、この絵が好きです。この頃(晩年)のレオナルドは、叔父の遺産相続や葡萄園の水利権のことで役所や裁判所に頻繁に行き来している。しかしながら、公証人や知人を間に入れてみるも、なかなか「解決」できずにいる。数か月を要するもまったく進まない交渉時に、「愚かな手続きのために無駄と思える時間を費やしている」とレオナルド・ダ・ヴィンチはメモを残しています。老人のスケッチが多く見られるのがこの頃なのです、観察していたのかもしれません。おそらく、レオナルド自身の老いも感じていたのかもしれません。レオナルドは、膨大なノートやメモを整理(後の手稿)し、フランスに行く(都落ち)ことになります。