2011年2月17日木曜日

「憂鬱な現場」から生まれた女



わたしたちは日々生活の中で、記憶の中の情景に慣らされてきている。
画家にとっても同じことが言える。眼の前の印象(イメージ)から、解放されることはない。これまでに見てきた情景や印象の多くは、時とともに消えてしまう。澱のように残ってしまった印象が、折り重なり変容して、蘇ることがある。そういった「歪曲化された印象(イメージ)」に刺激され、想像する。意味のわからない刺激こそ「創造の原点」に他ならない。
「歪曲化された印象」というフレーズは、バシュラール(哲学者)が繰り返し使っています。わたしは、多くの夢を絵にしてきました。夢を歪曲してきたかどうかはわかりませんが、スケッチブックやキャンバスに「夢の印象」を描きとめてきました。時折、それら情景や印象が視覚的なイメージを伴い「蘇った」としても、不思議はない。
わたしにとって、アトリエは「憂鬱な現場」である。
この絵のなかの女も、意味のわからない「記憶の澱」から生まれたのかもしれない。