2011年3月11日金曜日

HORST JANSSEN (ホルスト・ヤンセン)が残した「絵手紙」

 
ホルスト・ヤンセンもかなりな読書家で、文学はもとより哲学・音楽・歴史と多岐にわたる。絵を描くことは常に考えていることと同義語ですから、その知的好奇心は容易に理解できることです。どこにいても、何かを書いている姿を見かけることが多いと聞きます。これは「ホルスト・ヤンセンが残した絵手紙」です。このようなメモのような手紙が、「気を許していた編集者」に多数送られています。思いついたことを、書き留めていたものと思われますが、すべてが作品のように体裁が整えられていることに驚かされます。

2011年3月5日土曜日

ホルスト・ヤンセンのドローイングと版画



日本の画狂人というと葛飾北斎ですが、ヨーロッパで画狂人というと、ドイツ生まれのホルスト・ヤンセンを指します。北斎の影響を色濃く受けているからだけでない、その自由で闊達な線描ゆえにそう評される。私は、彼の描写力と冷徹な眼が好きだ。この画家をこのブログで紹介するのは、4度目になります。ヤンセンの作品の多くは、ドローイングと版画(木版画・銅版画)です。紙に描かれたものと、紙に刷られたものが大半だということなのです。その作品数は膨大で、誰も把握していないぐらいです。制作の現場で、恋人や友人たちに作品を渡してしまうことが多く、把握できないのはその為でもあり、気まぐれで神経質な性格が生活を煩雑にしていたこともあります。晩年、画商が作品を管理することになりますが、ホルスト・ヤンセンその人を管理できようはずもなく、いずこかへ隠遁してしまうことも度々あったと言われます。この人の線は、その表現の掟(きまりごと)を逸脱するほどの生命憾があり、そのエッジは鋭い刃物で切ったような潔さがあります。繰り返される描線の激しさは、静と動の狭間を飛ぶ鳥のようでもあり、獲物は跡形も無くなる。なによりも、見ていて飽きない絵が多いことが魅力です。和紙に描かれることも多く、無造作に切られたりつぎたされたりと、その素材に残る痕跡に驚かされます。わたしも若い頃に、銅版画の制作をしていたことがあり、素材の質感が表現を解放してくれることもあります。テキストとしての江戸浮世絵(北斎・歌麿)や和紙の質感が、ホルスト・ヤンセンの表現領域をかなり自由にしたと思われます

2011年3月4日金曜日

レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿から


『聖ヒエロニムス』が描かれた頃、レオナルド・ダ・ヴィンチは叔父の遺産相続や葡萄園の水利権のことで役所や裁判所に頻繁に行き来している。しかしながら、公証人や知人を間に入れてみるも、なかなか「解決」できずにいる。数か月を要するもまったく進まない交渉時に、「愚かな手続きのために無駄と思える時間を費やしている」と嘆いています。「老人」のスケッチが多く見られるのがこの頃なのです、観察していたのかもしれません。おそらく、レオナルド自身の老いも感じていたのかもしれません。レオナルドは、膨大なノートやメモを整理(後の手稿)し、フランスに行く(都落ち)ことになります。
『聖ヒエロニムス』のところで、わたしは上記のように書き加えました。パリ手稿には、水に関するメモが多く見られます。ミラノの運河計画や分水路(水利)などが知られていますが、アンボワーズ城地域(フランス)のロワーヌ川でも大規模な運河を計画しています。葡萄園の水利権トラブルに見られるように、川(水)の管理は生活に欠かせないものでした。レオナルド・ダ・ヴィンチにとって、水は自然観察の原点に他ならない。おそらく、創造の源泉と言っていいぐらいの「魅力ある対象」だったと思います。晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチは、ロワーヌ川岸をよく散策しています。
自然を観察することからレオナルド・ダ・ヴィンチは、多くのことを学び、新しい発見や創造をしています。野山を流れる川から、生物に優しい「治水のあり方・利水のシステムまで」を考えています。地層から数多く出てくる貝類から、『ノアの箱舟(創世記)』でなく『地殻変動(科学)』を意識するほどの思考過程をこれらの手稿に見ることができます。わたしたちがレオナルド・ダ・ヴィンチから学ぶことは、多いのです。晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチは、何を想い、何を後世に残したのか、わたしたちは謙虚に見直す必要があります。

レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖ヒエロニムス』


『聖ヒエロニムス』、この板に描かれた絵は、長く行方不明でした。顔の部分は、切り取られ、なんと靴屋の椅子に貼り付けられていたのです。今日、この状態で見られることは、奇跡と言っていいのです。しかも、この絵がレオナルド・ダ・ヴィンチの手になるという「裏付けになる資料(確証)」は何もないのです。そのすぐれた素描力と同時期のスケッチなどから推測しているにすぎないのですが、レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作として疑う人は誰もいません。わたしは、この絵が好きです。この頃(晩年)のレオナルドは、叔父の遺産相続や葡萄園の水利権のことで役所や裁判所に頻繁に行き来している。しかしながら、公証人や知人を間に入れてみるも、なかなか「解決」できずにいる。数か月を要するもまったく進まない交渉時に、「愚かな手続きのために無駄と思える時間を費やしている」とレオナルド・ダ・ヴィンチはメモを残しています。老人のスケッチが多く見られるのがこの頃なのです、観察していたのかもしれません。おそらく、レオナルド自身の老いも感じていたのかもしれません。レオナルドは、膨大なノートやメモを整理(後の手稿)し、フランスに行く(都落ち)ことになります。

2011年3月2日水曜日

レオナルド・ダ・ビンチの『白テンを抱く貴婦人の肖像』P-2


レオナルドのノート(手記)は、観察したことやそれらをもとに試みたことが記録されています。残された資料は膨大ですが、そこにはレオナルドの情感がほとんど見られません。意識的に感情を排除したものと思われます。まれにですが、メモの中にレオナルドの感情が読み取れる箇所があります。そのひとつに、チェチリア・ガッレラーニについて書かれたものがあります。チェチリアの名前にtu(親しい人につける敬称)をつけて書いている(敬称voiが通常です)。「・・・崇高なるチェチリア、わが最愛の女神よ・・・」と書かれているのです。再び『白テンを抱く貴婦人の肖像』を眺めていると、成熟した知的な女性の表情が見て取れます。いくつかのメモから、この賢い少女が、画家レオナルドのアトリエを訪れていることがわかります。ルドヴィーコ・イル・モーロは、この肖像画には代価を払っていません。数年後、チェチリア・ガッレラーニはルドヴィーコ・イル・モーロ配下の伯爵家に嫁ぎます。この期間に、レオナルドは2枚のマリアの絵を描いています。レオナルドのメモにでてくる『鏡』は「客観的に見ること」を意味するのですが、ここでは『時間』を意味するのかもしれません。後年、チェチリアは「わたしは、あの『肖像画のわたし』ではない」と言っています。

2011年3月1日火曜日

レオナルド・ダ・ビンチの『白テンを抱く貴婦人の肖像』


レオナルド・ダ・ビンチの『白テンを抱く貴婦人の肖像』(ツァルトリスキー美術館所蔵)。肖像画のモデルは、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロの愛妾チェチリア・ガッレラーニ。ルドヴィーコ・イル・モーロには7歳の婚約者がいましたので、その娘が成長するまでの愛妾がチェチリア・ガッレラーニでした。そのチェチリアもまだ16歳ですから、成熟した女性ではありません。この賢い少女の眼差しは、画家レオナルドをしっかりと見つめています。この頃のレオナルドのメモに、肖像画が似ているかどうかは『鏡』を通して見るとわかると書いています。ルドヴィーコ・イル・モーロがレオナルドにチェチリアの肖像を描かせたのには、いくつかの意図があったと言われます。そのひとつが『教養』だったと言われます。レオナルドは、その知性と優雅な会話術でも群を抜いていましたから。チェチリアの見つめる視線、微かに微笑む少女の表情からは多くのことが読み取れるのです。チェチリアは、おそらく『鏡』を介在して「自分の姿」を繰り返し見たことと思います。チェチリア・ガッレラーニがやさしく抱いている「白テン」は、純潔の象徴とも言われますが、ルドヴィーコ・イル・モーロの姿かもしれないとも言われています。真偽のほどはわかりませんが、わたしは後者(寓意)だと思います。