2011年1月30日日曜日

池田満寿夫の版画『プレゼント』


この作品『プレゼント』は、『部屋の中の死』の前年に制作されました。この作品には、『部屋の中の死』ほどの異様さを感じませんが、「不機嫌な時代」の作品に見られる特徴「引っ掻き傷」が見られます。そのことが、ことさら陰鬱なものを感じさせてしまうのです。しだいに触感的なイメージに執着していく傾向が見られます。

2011年1月27日木曜日

芸術は目に見えるものを再現することではなく見えるようにするものである


芸術は目に見えるものを再現することではなく見えるようにするものである。」
 この絵も感性だけで描いているように見えますが、それほど単純ではありません。 
 クレーは、自分の創作活動を丁寧に記録しています。このようなメモ(源泉)は、しだいに多くの美しい作品を生み出すことになります。この作品もそうですが、「色彩と線のみごとな調和」はクレー自身の『計算』によるものです。この音楽(ハーモニーやリズム)を感ずるような絵には、音符(記号)が隠されているのです。絵画でも音楽でも、何かを表現することは、思うほどたやすいことではありません。視覚的な表現を理論的に精錬していく過程計算された感覚)が生み出すのです。


2011年1月26日水曜日

わたしの絵(その2)





憂鬱な制作現場から生まれる「作品」とは

スケッチブックは、画家にとっての日記です。スケッチブックに描かれた絵は、印象(イメージ)の走り書きのようなものかもしれません。消えてしまうことのない印象も、時にはあるのです。だからといって、わたしの想像の源泉がスケッチブックにないことは言うまでもないことです。これまでに見てきた情景や印象の多くは、時とともに消えてしまう。バシュラール(哲学者)が言うように「創造の原点」は「歪曲化された印象」にあるのですから、記録された印象そのものには意味がないのです。スケッチブックやキャンバスに描きとめた印象は、すでに通常目にする印象に留まっているからです。言い換えれば、「日常の紙魚」にすぎないのです。紙魚のような情景や印象が、視覚的なイメージとして「蘇える」ということは、大変怖いことでもあるのです。アトリエを「憂鬱な制作現場」と表現するのには、それなりの意味があるのです。この絵にしても、明確な制作意図があるわけでもなく、わたしの脳裏をかすめたイメージを捉えたに過ぎない。

2011年1月25日火曜日

池田満寿夫の版画『部屋の中の死』




池田満寿夫さんの多くの版画作品から『部屋の中の死』を紹介します。池田満寿夫さんが版画をはじめたのは1956年、友人の画家・瑛九の勧めがきっかけでした。1966年の第33回ベネチア・ビエンナーレ展には、《天使の靴》《タエコの朝食》など28点を出品して版画部門の大賞を受賞。32歳の池田満寿夫さんは版画家としての名声を得たのです。これ以降、池田満寿夫さんはマルチタレント並みに活躍するのです。版画家としてだけでなく、小説や映画制作まで幅広い表現を試みることになります。この版画『部屋の中の死』は1974年の作品です。「不機嫌な時期」と言われる頃に制作された1枚ですが、わたしには強く印象に残っている版画です。この頃の版画には、画面を横切る線や引っかき傷が描かれることが多くなります。小説『エーゲ海に捧ぐ』が書かれたのもこの頃だと思いますが、表現がストレートになり感覚的になってきた時期でもあります。池田満寿夫さんの多くの版画には感覚的なイメージの合成にすぎない作品も多いのですが、この作品『部屋の中の死』には『異質なもの』を感じたのかもしれません。わたしたちは、視覚的な異様さには敏感に反応するのですが、この作品にはその異様さを感ずるのです。池田満寿夫さんの本『思考する魚』には、その頃の「重苦しい感情」が書かれています。そのせいか、この作品『部屋の中の死』には、素直に陰鬱なものを感じてしまうのです。

2011年1月24日月曜日

わたしの絵(その1)「花びらに潜むもの」




わたしの絵は、イメージの連鎖から生まれます。この「花びらに潜むもの」には、塗り込められた「想い」があります。わたしの抑えた感情が、この絵に潜んでいるとしたら、見る者に異様な恐怖を与えるかもしれない。描いているときに、そう思っていたわけではないが、振り返ってみての感想です。そういうものかもしれません、絵というものは。

2011年1月23日日曜日

フュースリの「悪魔」

フュースリの「悪魔」

フュースリの作品の中には神話やダンテ、そしてシェイクスピアなどイギリス文学に題材を取ったものが多い。強い明暗と象徴的な色使いが絵の特徴ですが、技法的にはミケランジェロに負うところが大きい。ミケランジェロは神々の崇高さを、その肉体(フォルム)の力強さで表現していますが、フュースリは人間の内に秘めている恐怖心や幻想を、感性で表現しようとしたのです。
フュースリは、1741年チューリッヒに肖像画家の子として生まれました。若い頃は、絵よりも文学に興味があり、コレギウムでは教師のボドマー(ミルトン『失楽園』やシェイクスピア作品などの翻訳・紹介で名高い)に影響を受け、のちに骨相学者として有名になるラヴァーターと親交を深めます。ふたりは1762年にチューリヒの代官の不正を告発することから郷里を追われ、ベルリンに逃亡することになります。フュースリはボドマーや英国大使のつてを頼って1764年にロンドンに移住します。翌65年には新古典主義の聖典、ヴィンケルマン『古代美術模倣論』の英訳本を刊行します。その後スイス時代から崇敬していたジャック=ジャック・ルソーに会い、67年に『ルソーの著作と生涯について』を刊行。美術だけにとどまらず思想や文学まで幅広い活動をしていました。しかし、官学派の巨頭ジョシュア・レノルズから画家になるよう勧められ、本格的に「画家への道」を歩むことになるのです。1770年から8年間イタリアに滞在して、画家としての修業を積むが、古典主義的技法の習得に励むものの、頭の中はロマン主義表現に夢中だったのです。帰英したフュースリはサロンの中心的存在となり、1782年にはロイヤル・アカデミーにこの『悪魔』を出品しています。何故かその後にも、同じテーマで何枚も描いている。ダンテやシェイクスピア、ミルトンなどの文学作品をテーマに幻想的な絵画を描いていきます。99年にはロイヤル・アカデミー教授に就任し、詩人であり画家でもあるウィリアム・ブレイクと出会い、いい意味での「生涯のライバル」になります。フュースリとウィリアム・ブレイクは、その文学的傾向からか、描く絵には多くの共通点が見られます。

2011年1月21日金曜日

わたしのアトリエから


わたしのアトリエに、竹かごに入ったミニカボチャがあります。ずいぶん年数が経ち、干からびています。このミニカボチャも、絵描きのモチーフです。モチーフは見つめられるために、アトリエに置かれるのですが、必ずしも描かれるとは限らない。枯れても、それは美しい。わたしのアトリエには、描かれなかったモチーフが、それとなく置かれています。