2011年12月2日金曜日

オランダ人画家キース・ヴァン・ドンゲン




オランダ人画家キース・ヴァン・ドンゲン、20歳の頃にはオランダからパリに移り住み、マティスを中心とするフォーヴィスムに参加し、力強い色彩と官能的表現で次第に頭角を現した。売れっ子の肖像画家としてパリ社交界の寵児となったドンゲンは、その強い個性と奔放な作風で大いに注目される。1929年の世界経済大恐慌、1933年のヒットラーの登場、そして1936年のナチス・ドイツのラインライト進駐、スペイン内乱と続く、一連の変動の中で、そのような甘い生活は泡沫のように消えて行ったのである。その後のドンゲンは、1968年に91歳で没するまで、南仏のコート・ダジュールに隠棲した。最後まで描き続けたが、かつての官能性も洗練も失われて、老後の余技といった作風に堕してしまった。

わたしがまだ若き頃、一時期「マチスの色彩とその独自の構成」に惹かれていた。同じ頃に、「ヴァン・ドンゲン」の作品を見る機会があった。マチスの洗練された画風のそれに比して、ヴァン・ドンゲンの技法はかなり稚拙に見えたものです。ところが、近頃はその「魅力」に囚われている。冷静でいられない感情が入り込むことで、表現が大きく変化する、制御できないパトスこそが「創作の源泉」ではないか・・・そう思うのです。年齢とともにパトスが鎮静し、それに反比例するように表現技術が習熟する、結果として、線も色彩も画面に心地好く収まってしまう・・・。「綺麗で心地いい絵」が多いことに、気づく。わたしだけでないのかもしれない・・・。

2011年11月20日日曜日

「火消し風俗伊達姿 浮世絵版画(芳賀書店版)」に江戸の粋を見る

「火消し風俗伊達姿 浮世絵版画(芳賀書店版)」に江戸の粋を見る


「火事と喧嘩は江戸の華」、世界有数の大都市「大江戸」は、成熟した文化と裏腹に火災が頻発した都市でもある。そこで活躍したのが、大名火消し(加賀藩・加賀鳶の喧嘩騒動は有名)や町火消し「いろは四十八組・深川十六組」であった。火災騒動で印象深いのは、歌舞伎の「伊達娘恋緋鹿子」、八百屋お七が狂乱状態で櫓の半鐘をうち鳴らす場面、炎に包まれた鐘を打つ娘の振袖と散る桜、その艶やかさがいつまでも目に残っている。江戸文化とは不思議な文化でもある、喜怒哀楽の襞にこういった「美意識」が密やかに育っている、粋でいなせな文化もそこで育まれたものに相違ない。この本に収められている多くは「浮世絵版画」、そういった江戸のエスプリ(精神文化)にわたしたちは魅了されるのである。

2011年9月9日金曜日

「paraparaart.com」のPRアニメーションが新しくなりました

paraparaart.comのPRアニメーションが新しくなりました


わたしたちのホームページ「paraparaart.comのPRアニメーションが新しくなりました。3DCGアニメーションの魅力のひとつが、そのリアルさにあります。しかしながら、リアルさだけを追い求めるだけでは、アニメ特有の「創造の広がり」が得られません。クリエーターは、それが極めて短い「PRアニメーション」であれ、執拗なまでに(仔猫の)動作を観察し、その何気ないしぐさのなかに(仔猫の)気持ちの細やかな変化をも表現する。子猫であれ、少女であれ、老人であれ、それは単なる「キャラクター」ではない、見る人に伝えたい「想い」が創造を豊かにするのかもしれない。

2011年6月20日月曜日

エドゥアルド・ナランホの絵画「夢を育てる空間」



「東北東海岸地域の惨状」「原発事故の恐怖」以降、時折わたしの脳裏を走る絵がある。詩人でもあるエドゥアルド・ナランホの絵画「夢を育てる空間」が、それである。生と死の問題に取り付かれた詩人エドゥアルド・ナランホの絵画は、徹底したリアリズムの手法で描かれる。しかも、現実の狭間に放置されたかのように、それらの多くは空虚そのものである。このスペイン画家「エドゥアルド・ナランホ」は、わたしと同時代(年齢は3~4歳わたしより上ですが)に生きている。この人にも「スペイン画家ダリ」の影響が多少見られるものの、その時代背景が影を落としていることは明瞭に伝わってくる。1960~1980年(わたしたち少年期~青春期)は、視覚的にはかなり刺激の多い時代と言える、言葉を変えれば「シュールな時代」だったのかもしれない。まさに日本が置かれている今の状況は、再び訪れた「シュールな時代」なのかもしれない。むろん、「夢を育てる空間」が意味するところは「謎」ですが、「空虚」を背負う覚悟だけはしないといけない。

2011年3月11日金曜日

HORST JANSSEN (ホルスト・ヤンセン)が残した「絵手紙」

 
ホルスト・ヤンセンもかなりな読書家で、文学はもとより哲学・音楽・歴史と多岐にわたる。絵を描くことは常に考えていることと同義語ですから、その知的好奇心は容易に理解できることです。どこにいても、何かを書いている姿を見かけることが多いと聞きます。これは「ホルスト・ヤンセンが残した絵手紙」です。このようなメモのような手紙が、「気を許していた編集者」に多数送られています。思いついたことを、書き留めていたものと思われますが、すべてが作品のように体裁が整えられていることに驚かされます。

2011年3月5日土曜日

ホルスト・ヤンセンのドローイングと版画



日本の画狂人というと葛飾北斎ですが、ヨーロッパで画狂人というと、ドイツ生まれのホルスト・ヤンセンを指します。北斎の影響を色濃く受けているからだけでない、その自由で闊達な線描ゆえにそう評される。私は、彼の描写力と冷徹な眼が好きだ。この画家をこのブログで紹介するのは、4度目になります。ヤンセンの作品の多くは、ドローイングと版画(木版画・銅版画)です。紙に描かれたものと、紙に刷られたものが大半だということなのです。その作品数は膨大で、誰も把握していないぐらいです。制作の現場で、恋人や友人たちに作品を渡してしまうことが多く、把握できないのはその為でもあり、気まぐれで神経質な性格が生活を煩雑にしていたこともあります。晩年、画商が作品を管理することになりますが、ホルスト・ヤンセンその人を管理できようはずもなく、いずこかへ隠遁してしまうことも度々あったと言われます。この人の線は、その表現の掟(きまりごと)を逸脱するほどの生命憾があり、そのエッジは鋭い刃物で切ったような潔さがあります。繰り返される描線の激しさは、静と動の狭間を飛ぶ鳥のようでもあり、獲物は跡形も無くなる。なによりも、見ていて飽きない絵が多いことが魅力です。和紙に描かれることも多く、無造作に切られたりつぎたされたりと、その素材に残る痕跡に驚かされます。わたしも若い頃に、銅版画の制作をしていたことがあり、素材の質感が表現を解放してくれることもあります。テキストとしての江戸浮世絵(北斎・歌麿)や和紙の質感が、ホルスト・ヤンセンの表現領域をかなり自由にしたと思われます

2011年3月4日金曜日

レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿から


『聖ヒエロニムス』が描かれた頃、レオナルド・ダ・ヴィンチは叔父の遺産相続や葡萄園の水利権のことで役所や裁判所に頻繁に行き来している。しかしながら、公証人や知人を間に入れてみるも、なかなか「解決」できずにいる。数か月を要するもまったく進まない交渉時に、「愚かな手続きのために無駄と思える時間を費やしている」と嘆いています。「老人」のスケッチが多く見られるのがこの頃なのです、観察していたのかもしれません。おそらく、レオナルド自身の老いも感じていたのかもしれません。レオナルドは、膨大なノートやメモを整理(後の手稿)し、フランスに行く(都落ち)ことになります。
『聖ヒエロニムス』のところで、わたしは上記のように書き加えました。パリ手稿には、水に関するメモが多く見られます。ミラノの運河計画や分水路(水利)などが知られていますが、アンボワーズ城地域(フランス)のロワーヌ川でも大規模な運河を計画しています。葡萄園の水利権トラブルに見られるように、川(水)の管理は生活に欠かせないものでした。レオナルド・ダ・ヴィンチにとって、水は自然観察の原点に他ならない。おそらく、創造の源泉と言っていいぐらいの「魅力ある対象」だったと思います。晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチは、ロワーヌ川岸をよく散策しています。
自然を観察することからレオナルド・ダ・ヴィンチは、多くのことを学び、新しい発見や創造をしています。野山を流れる川から、生物に優しい「治水のあり方・利水のシステムまで」を考えています。地層から数多く出てくる貝類から、『ノアの箱舟(創世記)』でなく『地殻変動(科学)』を意識するほどの思考過程をこれらの手稿に見ることができます。わたしたちがレオナルド・ダ・ヴィンチから学ぶことは、多いのです。晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチは、何を想い、何を後世に残したのか、わたしたちは謙虚に見直す必要があります。

レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖ヒエロニムス』


『聖ヒエロニムス』、この板に描かれた絵は、長く行方不明でした。顔の部分は、切り取られ、なんと靴屋の椅子に貼り付けられていたのです。今日、この状態で見られることは、奇跡と言っていいのです。しかも、この絵がレオナルド・ダ・ヴィンチの手になるという「裏付けになる資料(確証)」は何もないのです。そのすぐれた素描力と同時期のスケッチなどから推測しているにすぎないのですが、レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作として疑う人は誰もいません。わたしは、この絵が好きです。この頃(晩年)のレオナルドは、叔父の遺産相続や葡萄園の水利権のことで役所や裁判所に頻繁に行き来している。しかしながら、公証人や知人を間に入れてみるも、なかなか「解決」できずにいる。数か月を要するもまったく進まない交渉時に、「愚かな手続きのために無駄と思える時間を費やしている」とレオナルド・ダ・ヴィンチはメモを残しています。老人のスケッチが多く見られるのがこの頃なのです、観察していたのかもしれません。おそらく、レオナルド自身の老いも感じていたのかもしれません。レオナルドは、膨大なノートやメモを整理(後の手稿)し、フランスに行く(都落ち)ことになります。

2011年3月2日水曜日

レオナルド・ダ・ビンチの『白テンを抱く貴婦人の肖像』P-2


レオナルドのノート(手記)は、観察したことやそれらをもとに試みたことが記録されています。残された資料は膨大ですが、そこにはレオナルドの情感がほとんど見られません。意識的に感情を排除したものと思われます。まれにですが、メモの中にレオナルドの感情が読み取れる箇所があります。そのひとつに、チェチリア・ガッレラーニについて書かれたものがあります。チェチリアの名前にtu(親しい人につける敬称)をつけて書いている(敬称voiが通常です)。「・・・崇高なるチェチリア、わが最愛の女神よ・・・」と書かれているのです。再び『白テンを抱く貴婦人の肖像』を眺めていると、成熟した知的な女性の表情が見て取れます。いくつかのメモから、この賢い少女が、画家レオナルドのアトリエを訪れていることがわかります。ルドヴィーコ・イル・モーロは、この肖像画には代価を払っていません。数年後、チェチリア・ガッレラーニはルドヴィーコ・イル・モーロ配下の伯爵家に嫁ぎます。この期間に、レオナルドは2枚のマリアの絵を描いています。レオナルドのメモにでてくる『鏡』は「客観的に見ること」を意味するのですが、ここでは『時間』を意味するのかもしれません。後年、チェチリアは「わたしは、あの『肖像画のわたし』ではない」と言っています。

2011年3月1日火曜日

レオナルド・ダ・ビンチの『白テンを抱く貴婦人の肖像』


レオナルド・ダ・ビンチの『白テンを抱く貴婦人の肖像』(ツァルトリスキー美術館所蔵)。肖像画のモデルは、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロの愛妾チェチリア・ガッレラーニ。ルドヴィーコ・イル・モーロには7歳の婚約者がいましたので、その娘が成長するまでの愛妾がチェチリア・ガッレラーニでした。そのチェチリアもまだ16歳ですから、成熟した女性ではありません。この賢い少女の眼差しは、画家レオナルドをしっかりと見つめています。この頃のレオナルドのメモに、肖像画が似ているかどうかは『鏡』を通して見るとわかると書いています。ルドヴィーコ・イル・モーロがレオナルドにチェチリアの肖像を描かせたのには、いくつかの意図があったと言われます。そのひとつが『教養』だったと言われます。レオナルドは、その知性と優雅な会話術でも群を抜いていましたから。チェチリアの見つめる視線、微かに微笑む少女の表情からは多くのことが読み取れるのです。チェチリアは、おそらく『鏡』を介在して「自分の姿」を繰り返し見たことと思います。チェチリア・ガッレラーニがやさしく抱いている「白テン」は、純潔の象徴とも言われますが、ルドヴィーコ・イル・モーロの姿かもしれないとも言われています。真偽のほどはわかりませんが、わたしは後者(寓意)だと思います。

2011年2月27日日曜日

「金沢蓄音器館」にて



昨日訪れた「金沢蓄音器館」ですが、八日市屋浩志さん(山蓄コレクション)の蓄音器540台とSPレコード2万枚を基に開館した施設です。金沢市と創立以降の寄付に支えられて今日にいたるのですが、わたしたち音楽好きにとっては「イメージの宝石箱」です。昨日のピアノライブ「ショパンとリスト~祖国へ寄せる熱い思い」もここで行われました。金沢市が育んできた「音楽文化」が、このようなところにも見られるのです。

「ショパンとリスト~祖国へ寄せる熱い思い」を聴く


「金沢蓄音器館」、金沢の異空間のひとつ、わたしは「宝石箱」と思っています。ホールというにはあまりに小さい、「サロン」のような空間で、わたしは「ショパンとリスト~祖国へ寄せる熱い思い」を聴いた。弦を叩く音が、ストレートに伝わる距離であることに、通常得られない響きと感動が小さな空間を次第に満たしていく。わたしは若い頃から、繰り返し聴いてきた曲、それだけに格別な感情を懐いて聴いていた。大野由加さんはショパン(英雄ポロネーズ・革命のエチュードなど)を、長野良子さんはリスト(ハンガリー狂詩曲・コンソレーション)を、それぞれの解釈と情熱でみごとに弾いてくれました。
(写真はビクターマーク・画家フランシス・バラウドの絵「ニッパー(フォックス・テリア)」を元に作られました・金沢蓄音器館にて)

2011年2月18日金曜日

ルドンの「ケンタウロスと龍」


ルドンの描く「象徴的な世界」が個人的に好きで、よく取り上げているのです。この「ケンタウロスと龍」は、ギリシア神話から題材を得ています。ケンタウロスが龍と闘っているところを描いていますが、闇の中に浮かぶその姿に、わたしはいつも静寂とむなしさを感じてしまいます。ケンタウロス(下半身が馬で上半身が人の姿)には、きわめて攻撃的(野蛮)なものと、知性を備えたものとがいます。むろん、その両方を持ち合わせたものも多くいたと思います。いずれにしてもギリシア神話では、英雄ヘラクレスの手でケンタウロス族は滅ぼされてしまいます。ケンタウロスの姿の裏に人間の姿をダブらせて見てしまうのは、わたしだけだろうか・・・。

ルドンの「蝶と花」


この「蝶と花」は、板に水彩で描かれています。水彩やパステルを使った作品が多いのもルドンの特徴です。頭の中に浮かぶイメージをすばやく描きとめるには、適した画材だと思います。ルドンは、蝶を繰り返し描いています。昔から蝶は、「死者の魂」の象徴とされています。おそらくルドンは、死のイメージを意識してこの絵を描いたものと思われます。若き頃、妹や弟の死を、ルドンは目にしています。幼い息子の死にも、立ち会うことになります。パステルの粉のように、ルドンの絵は、いつも危うくデリケートなものになります。ルドン自身、蝶のように彷徨しているように見えます。晩年、花を繰り返し描いていますが、この美しい花こそ「母親のイメージ」であり、この絵の片隅にも見られます。ルドンは、幼いときに母親に捨てられています。この『心の傷』が、すべての作品に見られます。わたしは、ルドンの絵に「風」を見ているのかもしれません。

2011年2月17日木曜日

「憂鬱な現場」から生まれた女



わたしたちは日々生活の中で、記憶の中の情景に慣らされてきている。
画家にとっても同じことが言える。眼の前の印象(イメージ)から、解放されることはない。これまでに見てきた情景や印象の多くは、時とともに消えてしまう。澱のように残ってしまった印象が、折り重なり変容して、蘇ることがある。そういった「歪曲化された印象(イメージ)」に刺激され、想像する。意味のわからない刺激こそ「創造の原点」に他ならない。
「歪曲化された印象」というフレーズは、バシュラール(哲学者)が繰り返し使っています。わたしは、多くの夢を絵にしてきました。夢を歪曲してきたかどうかはわかりませんが、スケッチブックやキャンバスに「夢の印象」を描きとめてきました。時折、それら情景や印象が視覚的なイメージを伴い「蘇った」としても、不思議はない。
わたしにとって、アトリエは「憂鬱な現場」である。
この絵のなかの女も、意味のわからない「記憶の澱」から生まれたのかもしれない。

2011年2月13日日曜日

靉光の代表作『目のある風景』


ついでにというわけではないが、靉光の代表作『目のある風景』も紹介しておきましょう。『馬』も『目のある風景』も、描かれたものは靉光の分身だと、わたしは思っています。やせ細った「彷徨う馬」も、気味悪く「冷徹な眼」も、靉光その人に違いないのです。「靉光」、画名「靉川光郎」、本名・石村日郎の苦悩は時代の苦悩でもあり、「孤独な画家そのものの姿」と言わなければならない。戦時下特有の陰鬱な風の中で、佇む靉光の「純真さ」がこの作品に見て取れます。ともすると、その精神が引き裂かれかねない時代状況にあって、これほどまでに明確な『意志』を描いた絵は見たことがない。戦時下の画家にとって「抽象表現」は逃避に見られかねないが、この『冷徹な眼』は時代を明確に射抜いています、リアルそのものと言っていいのかもしれません。

靉光の油絵『馬』に潜む陰影


画学生(70年安保)の頃、わたしは『萩原朔太郎』の詩から得た印象(イメージ)を絵にしていました。同じ頃に靉光の絵を見ていたこともあり、この二人を重ねて(ダブルイメージで)記憶しています。靉光は広島の画家ですが、上海の病院で「戦病死・享年40歳」しています。実家に置かれた作品も、被爆で大半焼失しています。ですから、この『馬』は数少ない遺作の1枚になります。この『馬』に潜む陰影は、朔太郎の言葉以上に語りかけてくるものがあります。当時は眠れない日々も多く、よく「夢にまで表れた絵」でもあるわけで、わたしには必ずしも「好きな絵」ではありません。昨晩、何故か「この絵の夢」を見たわけです。若き頃に受けた影響は、計り知れないものがあります。

モローの「オイディプス」


この絵の主題もギリシア神話をもとに描かれている。イタリアから戻った頃の作品ですので、古典的な手法が多く見られます。
オイディプスは、「我が子に殺される」というアポロンの神託を恐れた父であるテバイ王ライオスに殺されかかるが、家臣に助けられた。成長したオイディプスは、テバイの町に行き、知らずに父を殺してしまう。オイディプスは、怪物スフィンクスに問いかけられた謎を解き、スフィンクスは悔しさのあまり崖から飛び降り、自らの命を絶った。新王となったオイディプスは、何も知らずに実の母を后に迎えるが、やがて全てが明らかになったとき、自らの目を潰して町を去る。
このように手がけた主題(画題)は歴史画や神話画が大半であるが、その解釈は画家独特のものであり、幻想性と宝石細工のような美しさに溢れている。また大作の多くは油彩画であるが、水彩による習作やデッサンなどにも画家の卓越した力量が示されている。1826年、建築家(建築技官)であった父ルイ・モローと音楽家の母ポーリヌ・デムティエの間にパリで生まれ、幼少期からデッサンなどで才能を示す。しかし、画家自身は孤高の存在であった。1888年、美術アカデミー会員に選出され、1891年からはエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の教授となり、20世紀を代表する画家ジョルジュ・ルオーやフォーヴィスムの画家アンリ・マティスらを教える。1898年、癌のために死去する。

モローの「オルフェ」


竪琴の名手オルフェウス。人間だけでなく、動物をも魅了するほど美しい音を奏でた。オルフェウスは、エウリュディケの死後、女をさけていた。トラキアの乙女たちは、オルフェウスをとりこにしようとしたが、彼は見向きもしなかった。ディオニュソスの儀式の時に、女たちは興奮して「あそこに私たちを馬鹿にする人がいる」と。オルフェウスは手足を裂かれ、頭と竪琴はヘブルス川へ投げ込まれた。ミューズの女神たちは、切れ切れの身体を集めて、リベトラに葬った。竪琴はゼウスが星の中においた。幽霊となったオルフェウスは再び黄泉の国へ行って、エウリュディケに出会う。
ギリシア神話を幻想的に描いてきた、モローの代表作品「オルフェ」です。画家だけでなく、詩人や音楽家たちにも影響を与え続けた、数少ない芸術家の一人です。しかし、この画家ほど評価の定まらない人も珍しい。物語性の強い『主題』のせいか、不安定な表現力のためか、優れた画家の一人にはなれません。わたしには、モローの作品に惹かれる個人的理由があります。「過去の想い出」にかかわることで、ここには書けませんが、そのような印象が残像のように個々の絵にあるのかもしれません。映画を見た後の印象に、近いものがあります。

2011年2月12日土曜日

梅原猛さんの「湖の伝説」と画家・三橋節子さん


梅原猛さんの「湖の伝説」と画家・三橋節子さん


「三橋節子」という日本画家を知っていますか。詳しく知りたい人は、梅原猛さんの「湖の伝説」を読んでください。「湖の伝説-雷の落ちない村」は、35歳の若さでこの世を去らねばならない三橋節子さんが、「くさまお」と「なずな」という二人のわが子に残した絵本です。「右腕切断」後に左手で描かれた絵本です。それから、近江昔話から題材をとった「三井の晩鐘」。「ありがとう、幸せやった」と最後のことばを残して・・・こどもたちには最後の手紙を残している。わたしは、幾度か大津にある三橋節子さんの「小さな美術館」を訪れています。小高い丘にあるその美術館には、三橋節子さんの穏やかで美しい絵が整然と並んでいます。見ている人の少ない、静かな空間に、わたしは『白い線描の美しい絵』をいつまでも眺めていました。

2011年1月30日日曜日

池田満寿夫の版画『プレゼント』


この作品『プレゼント』は、『部屋の中の死』の前年に制作されました。この作品には、『部屋の中の死』ほどの異様さを感じませんが、「不機嫌な時代」の作品に見られる特徴「引っ掻き傷」が見られます。そのことが、ことさら陰鬱なものを感じさせてしまうのです。しだいに触感的なイメージに執着していく傾向が見られます。

2011年1月27日木曜日

芸術は目に見えるものを再現することではなく見えるようにするものである


芸術は目に見えるものを再現することではなく見えるようにするものである。」
 この絵も感性だけで描いているように見えますが、それほど単純ではありません。 
 クレーは、自分の創作活動を丁寧に記録しています。このようなメモ(源泉)は、しだいに多くの美しい作品を生み出すことになります。この作品もそうですが、「色彩と線のみごとな調和」はクレー自身の『計算』によるものです。この音楽(ハーモニーやリズム)を感ずるような絵には、音符(記号)が隠されているのです。絵画でも音楽でも、何かを表現することは、思うほどたやすいことではありません。視覚的な表現を理論的に精錬していく過程計算された感覚)が生み出すのです。


2011年1月26日水曜日

わたしの絵(その2)





憂鬱な制作現場から生まれる「作品」とは

スケッチブックは、画家にとっての日記です。スケッチブックに描かれた絵は、印象(イメージ)の走り書きのようなものかもしれません。消えてしまうことのない印象も、時にはあるのです。だからといって、わたしの想像の源泉がスケッチブックにないことは言うまでもないことです。これまでに見てきた情景や印象の多くは、時とともに消えてしまう。バシュラール(哲学者)が言うように「創造の原点」は「歪曲化された印象」にあるのですから、記録された印象そのものには意味がないのです。スケッチブックやキャンバスに描きとめた印象は、すでに通常目にする印象に留まっているからです。言い換えれば、「日常の紙魚」にすぎないのです。紙魚のような情景や印象が、視覚的なイメージとして「蘇える」ということは、大変怖いことでもあるのです。アトリエを「憂鬱な制作現場」と表現するのには、それなりの意味があるのです。この絵にしても、明確な制作意図があるわけでもなく、わたしの脳裏をかすめたイメージを捉えたに過ぎない。

2011年1月25日火曜日

池田満寿夫の版画『部屋の中の死』




池田満寿夫さんの多くの版画作品から『部屋の中の死』を紹介します。池田満寿夫さんが版画をはじめたのは1956年、友人の画家・瑛九の勧めがきっかけでした。1966年の第33回ベネチア・ビエンナーレ展には、《天使の靴》《タエコの朝食》など28点を出品して版画部門の大賞を受賞。32歳の池田満寿夫さんは版画家としての名声を得たのです。これ以降、池田満寿夫さんはマルチタレント並みに活躍するのです。版画家としてだけでなく、小説や映画制作まで幅広い表現を試みることになります。この版画『部屋の中の死』は1974年の作品です。「不機嫌な時期」と言われる頃に制作された1枚ですが、わたしには強く印象に残っている版画です。この頃の版画には、画面を横切る線や引っかき傷が描かれることが多くなります。小説『エーゲ海に捧ぐ』が書かれたのもこの頃だと思いますが、表現がストレートになり感覚的になってきた時期でもあります。池田満寿夫さんの多くの版画には感覚的なイメージの合成にすぎない作品も多いのですが、この作品『部屋の中の死』には『異質なもの』を感じたのかもしれません。わたしたちは、視覚的な異様さには敏感に反応するのですが、この作品にはその異様さを感ずるのです。池田満寿夫さんの本『思考する魚』には、その頃の「重苦しい感情」が書かれています。そのせいか、この作品『部屋の中の死』には、素直に陰鬱なものを感じてしまうのです。

2011年1月24日月曜日

わたしの絵(その1)「花びらに潜むもの」




わたしの絵は、イメージの連鎖から生まれます。この「花びらに潜むもの」には、塗り込められた「想い」があります。わたしの抑えた感情が、この絵に潜んでいるとしたら、見る者に異様な恐怖を与えるかもしれない。描いているときに、そう思っていたわけではないが、振り返ってみての感想です。そういうものかもしれません、絵というものは。

2011年1月23日日曜日

フュースリの「悪魔」

フュースリの「悪魔」

フュースリの作品の中には神話やダンテ、そしてシェイクスピアなどイギリス文学に題材を取ったものが多い。強い明暗と象徴的な色使いが絵の特徴ですが、技法的にはミケランジェロに負うところが大きい。ミケランジェロは神々の崇高さを、その肉体(フォルム)の力強さで表現していますが、フュースリは人間の内に秘めている恐怖心や幻想を、感性で表現しようとしたのです。
フュースリは、1741年チューリッヒに肖像画家の子として生まれました。若い頃は、絵よりも文学に興味があり、コレギウムでは教師のボドマー(ミルトン『失楽園』やシェイクスピア作品などの翻訳・紹介で名高い)に影響を受け、のちに骨相学者として有名になるラヴァーターと親交を深めます。ふたりは1762年にチューリヒの代官の不正を告発することから郷里を追われ、ベルリンに逃亡することになります。フュースリはボドマーや英国大使のつてを頼って1764年にロンドンに移住します。翌65年には新古典主義の聖典、ヴィンケルマン『古代美術模倣論』の英訳本を刊行します。その後スイス時代から崇敬していたジャック=ジャック・ルソーに会い、67年に『ルソーの著作と生涯について』を刊行。美術だけにとどまらず思想や文学まで幅広い活動をしていました。しかし、官学派の巨頭ジョシュア・レノルズから画家になるよう勧められ、本格的に「画家への道」を歩むことになるのです。1770年から8年間イタリアに滞在して、画家としての修業を積むが、古典主義的技法の習得に励むものの、頭の中はロマン主義表現に夢中だったのです。帰英したフュースリはサロンの中心的存在となり、1782年にはロイヤル・アカデミーにこの『悪魔』を出品しています。何故かその後にも、同じテーマで何枚も描いている。ダンテやシェイクスピア、ミルトンなどの文学作品をテーマに幻想的な絵画を描いていきます。99年にはロイヤル・アカデミー教授に就任し、詩人であり画家でもあるウィリアム・ブレイクと出会い、いい意味での「生涯のライバル」になります。フュースリとウィリアム・ブレイクは、その文学的傾向からか、描く絵には多くの共通点が見られます。

2011年1月21日金曜日

わたしのアトリエから


わたしのアトリエに、竹かごに入ったミニカボチャがあります。ずいぶん年数が経ち、干からびています。このミニカボチャも、絵描きのモチーフです。モチーフは見つめられるために、アトリエに置かれるのですが、必ずしも描かれるとは限らない。枯れても、それは美しい。わたしのアトリエには、描かれなかったモチーフが、それとなく置かれています。